【ベトナムジッポー3】我何とて災いを恐れず

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“Though I walk through the valley of the shadow of death I will fear no evil”
(暗き深淵をさまようとも、われ何とて災いを恐れず)

旧約聖書詩篇第23の中の一節だ。

2001年9月11日の晩ブッシュ大統領も、動揺する国民に向けた演説の中に、この聖句を引用した。これは古くからアメリカ国民が困難に立ち向かう際、心の支えとなってきた句なのである。ただしこのライターの、その後に続く文句は、はなはだしくヤケクソな呪いの句だ。

“For I am the evilest son of a bitch in the valley”
(何故ならそれはおれがこの場所でいちばん最悪のクソッタレ野郎だからよ!)

作家、開高健氏もこれと同じ文句を彫りつけたジッポーを愛し、戦時下のベトナムで記者として従軍する際、それを弾丸よけのお守りとして持ち歩いていた。

実は僕は、開高氏と縁がある。

1984年の夏だったと思う。羽田空港ロビーから出ようとした僕は、開高氏とすれ違った。

…………ただそれだけ。

知り合いでもなんでもない。挨拶を交わしたわけでも、何かハプニングがあったわけでもない。本当に一瞬、ただし肩が触れ合うほどすぐ横をすれ違った。それだけの縁。

だが、僕が開高さんの作品を愛しているというのは事実だ。小説の面白さなら『日本三文オペラ』、掌編の美しさならば『飽満の種子』、ノンフィクションなら無論『ベトナム戦記』だし、数多いエッセイはどれもいいが『私の釣魚大全』が最高傑作だと思う。

数多い著作の中に、ちょっと毛色の変わった本で『風に訊け』というのがある。これは週刊プレイボーイに連載されていた開高さんの若者向け人生相談コーナーを本にしたものだ。この企画を担当していた当時の集英社の編集者がTさんという名物男で、開高さんがこの人をたいそう可愛がり、自分の娘と結婚させようと画策までしたらしいという人物なのだが――、

実は僕の書いたものを拾ってくれ世に出してくれたのが、後にノンフィクション部門の編集長になっていたこのTさんなのである。『ダイバーはパラオの海をめざす』というタイトルをつけてくれたのもこの人だ。

ちなみにこの本。絶版状態なのでネットで古本探して買ってください。自分で言ってしまいますが、名著です。

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ダイバーはパラオの海をめざす


話がそれた。

とにかく、開高健のファンであることを自認しその上、遠くはあるが奇縁だってある――と勝手に思っている僕が、開高さんが愛しお守り代わりに持ち歩いたのと同じ文句が刻み付けてある当時の“ホンモノの”ジッポーを、開高さんが涙するほど(しなかったっけ?)愛したサイゴンという街で発見して、どうして平気でいられようか。

だから僕は、ニセモノを掴まされる大いなる可能性を知りながらも、どうしても買わずにはいられなかったのである。

ところが、と言おうか、あるいはやはりと言うべきか――、

「馬鹿だなあ、そんなもんニセモンに決まってるって。絶っっっ対にホンモノであるわけがない。ここをどこだと思ってるんだ?!」

そういうことを、僕の熱い思いなどにまるで頓着せず簡単に言っちゃう奴がいて、僕はいささかならず憤慨しなければならなかったのである。

ベトナムジッポー 4】につづく。

スカイスキャナー


文/写真    太田耕輔(ライター・文筆家)
パラオの某ダイブショップにマネージャーとして勤務していたが6年目にして発作的に退職、日本に帰らずそのままインドシナ半島放浪の旅へ。フラフラになったところをベトナムにとどめをさされ帰国。
1年半引きこもってパラオでの体験を書き、半年かけて出版社に売り込んで回ったら本当に出してもらえるという奇跡が起きた。それがダイバーはパラオの海をめざす
以降ライター・文筆家として活動。エッセイ、取材記事、ガイドブックやパンフレット、マニュアル、宣伝用の文章からメルマガまで文章ならなんでも書く。
接触を試みたい方はこちら⇒daijooob@gmail.com




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