【ベトナムジッポー2】ベトナムジッポーを愛する理由

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母親にご飯だよと呼ばれて小学生の僕が食卓に着く。

当時――1960年代後半から70年代前半にかけて――、テレビを見ながら家族揃って(場合によっては親父除く)晩餐というのが日本の家庭の正しい姿であった。

夕方6時から7時頃といえば今も夕刻のニュースの時間だが、当時、楽しいはずの夕餉の向こう、ブラウン管に映るのは、決まってベトナム戦争の惨状だった。
後に映画 “地獄の黙示録” で脳裏に焼き付けられることになるあのUH-1型ヘリコプター。投下される大量の爆弾。ジャングルを焼くナパームの炎。ラッキーストライクの箱をヘルメットに挟んだ米兵。炎を吹き上げる家。泣き叫ぶベトナムの老女や子供たち――。

そういう光景を、ものごころついた時から小学校を卒業するまで毎日、夕食時に見せられて育ったのが僕ら世代なのである。大人になった今、あのベトナムを思い出させるものを目にしあるいはそうしたものに触れるとき、な~んにも感じずにいられる方が異常というものだ。

というわけで僕は、サイゴンの街角であるいは市場の暗い片隅で、ベトナム・ジッポーが並べられたショーケースの前では必ず足を止め目を瞠り、買おうか買うまいか迷っていたのである。

簡単に手が出せないのにもまた理由がある。ベトナムの市場を覗いてみれば、それはすぐにおわかりいただける。

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(チョロンのビンタイ市場で発見 謎のキャラクター。あえて謎と言いたい)

たとえばそのへん、暗い一隅に無造作に置かれているキャリーバッグ。そのど真ん中に『Nokia』のロゴがデカデカとついている。フィンランドの世界的通信機器メーカーが、こんなダッサいキャリーバッグなど作るわけがないのだが。
金物屋の店先に山積みになっている安っぽいプラスチックのトレー。見るとでかでかと『ADSL』と印刷されたラベルが貼ってある。大容量通信サービスとプラのお盆になんの脈絡があるのかはわからない。
さらに見渡すと、スポーツウェアを扱う店の軒先に吊るされたテニス帽。手に取ってみると『FILA』『ellesse』『NIKE』『Prince』『adidas』5つのブランド名の刺繍タグが全部、帽子をぐるりと縁取るように縫い付けられている。もう何がしたいのかわからない。

こんなふうにベトナム製品は侮れないのである。ニセモノがそこらじゅうに氾濫、横行し、ホンモノを圧倒し笑い倒している状態なのである。その上ベトナムには「定価」もしくは「適正価格」という概念がない。「いくら?」と訊くと「いくらなら買う?」とくる。腹立たしいことこの上もない。モノの価値というものがまるで踏みにじられている。

男はモノに込められた機能を愛するのである。機能に裏付けられたデザインを愛するのである。質実剛健なタフネスを愛し、風の中で確実に着火する信頼性を愛するのである。それが表れた堅い直線を愛し、手になじむ曲線に身悶えし、蓋が開く音に身震いし、着火音に昇天するのである。

自分の目で選び抜いたツール。確かなもの、価値あるものを自分が選んだという誇りに価値を見出し、正当な対価を払い、愛するのである。

したがって贋物と分かった途端愛は冷める。贋物を掴まされたと知ることは、プライドの崩壊そのものだ。これほど許しがたいことは男にとって他にない。贋物でいいなどと、男なら決して言ってはならない。そんな安っぽい男であってはならない。

ベトナムという国がいつ寝首を搔かれるかわからない油断のならない国であることは重々知りつつ、しかしながらついにあるとき、我慢できずに僕はジッポーライターをひとつ買ってしまったのである。

ベトナムジッポー 3】につづく。

スカイスキャナー

文/写真    太田耕輔(ライター・文筆家)

パラオの某ダイブショップにマネージャーとして勤務していたが6年目にして発作的に退職、日本に帰らずそのままインドシナ半島放浪の旅へ。フラフラになったところをベトナムにとどめをさされ帰国。
1年半引きこもってパラオでの体験を書き、半年かけて出版社に売り込んで回ったら本当に出してもらえるという奇跡が起きた。それがダイバーはパラオの海をめざす
以降ライター・文筆家として活動。エッセイ、取材記事、ガイドブックやパンフレット、マニュアル、宣伝用の文章からメルマガまで文章ならなんでも書く。
接触を試みたい方はこちら⇒daijooob@gmail.com



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